4.張仲景(ちょうちゅうけい)—「傷寒雑病論」を著す

張仲景
張仲景(ちょうちゅうけい)  150?-219?
張仲景

望診の達人

張仲景、名は機、後漢のころの南陽郡涅(でつ)陽(よう)(河南省鎮平県東北部)の人。文献上の考証では、桓帝の和平元年(150)に生まれ、献帝の建安24年(219)卒。享年はおよそ70歳。

仲景は幼い頃から「群書に博通」し、10代ですでに地方に名前が広まっていた。霊帝のときに、孝廉に推挙され、50歳のころには長沙の太守(県知事のような政治家)となった。しかし彼が有名なのは政治家としてではなく、「傷寒雑病論」という医学書の著者としてである。

このシリーズ第2回で紹介した扁鵲の話を、仲景はその若き日に本で読み、「越人(扁鵲)が眈(かく)の太子を治療したことや、斉侯に対する望診のことを思うたび、そのすばらしさに溜め息を洩らさずにいられない」(「傷寒雑病論」序文)と記している。彼は同郷の張伯祖に師事し、教えられたことは全部習得し、用薬の判断については、とうに師をぬきんでていた、といわれる。

仲景の時代より少し後の「甲乙経」という本の序文に、こんなエピソードがある。
仲景が若き日、侍中の職にあった王仲宣と出会い、王仲宣の顔色を一目見るなり、
「あなたには病気があります。40歳で眉が落ち、その半年後に死んでしまいます。しかし、今のうちに五石湯を服用すれば大丈夫です」と忠告しました。
しかし、王仲宣は若造のハッタリと思い、相手にしませんでした。3日後に再び会った二人は、
「薬は服用しましたか?」
「ああ服用したよ」
「嘘おっしゃい、お顔の色からみれば、服用したとは思えません。どうしてあなたは自分の命をそんなに粗末になさるのですか?」
果たして、王仲宣が40歳になると眉が落ち、187日後に死んでしまいました。

漢方医学では、チラッと患者さんを見ただけで診断する、望診という技術が重視されますが、このエピソードなどは、チラッと見ただけで、何年も後の病気と死をピタリと当ててしまうわけで、仲景が望診の達人だったことが分かります。
こんなエピソードもあります。
仲景が桐板山で薬草採集をしていると、一人の老人が治療を乞います。仲景が脈をみると、なんと人間の脈ではありません。
「あなたの腕には獣脈が流れているが、これはどうしたことか?」
正体を見破られて姿を現したのは、1匹の大きな老猿。長患いをどうか助けてほしいとの願いに仲景は丸薬を与え、一服で元気にさせました。
これは漢方の診断法のなかの脈診という技術に仲景が秀でていた、というお話です。

張仲景の著作とされる「傷寒雑病論」の序文に以下の記述があります。

「余の一族は、もともと二百人にあまるほどいたが、建安元年(AD.196)から10年もたたないのに、死亡するものがその3分の2に達した。そしてそのうち10分の7は傷寒にかかって死んだのだ。こうして死亡者の続出したこと、年若くして死んでゆく人々を救う手段のなかったことを嘆じ、発奮して「傷寒雑病論」を著した……」

この伝染病の記述は、後の研究で、紀元2~3世紀の頃、インドに発生し、ヨーロッパと中国を同時に襲った数々の「大疫」のひとつと一致しています。
まことに医学の歴史の中心は洋の東西を問わず疫病の制圧にありました。

「傷寒雑病論」の「雑病」とは、まあ今でいう慢性疾患に相当しますが、「傷寒」とは、今でいう腸チフスやコレラのような伝染病(疫病)だと考えられています。

その後も中国では伝染病を克服する手段がいろいろ考えられ、新しい伝染病が流行すると新しい生薬が発見されたり、新しい方剤が創られたりしています。エイズのことを考えてみて下さい。
医学の歴史は昔も今も、西も東も、ちっともかわっていないなぁ、と思います。漢方薬は慢性疾患に効くといういい方は、間違いではありませんが、本来漢方薬が発見され、発展してきた主な要因は、急性疾患(伝染病)の克服にあったことは、覚えておいてよいでしょう。当然、風邪の治療などは漢方の得意中の得意なわけです。

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日本漢方に多大な影響

詳細に記述しましたが、それは日本漢方が、その著書「傷寒雑病論」を特に重視した歴史があるからです。
江戸時代初期の元禄時代、儒学の分野で、当時支配的であった朱子学にかわって、儒学の原点、孔子にもどろうという動きがありました。
ちょうど同じころ、キリスト教にがんじがらめとなっていた西欧では、ギリシャへ帰れ、というルネッサンス(文芸復興)のまっただ中です。こうして、極東の国日本で、西欧のルネッサンスに相当する「元禄ルネッサンス」があったことは、後にアジアで日本だけが西欧化できたことと無関係ではありません。
この元禄ルネッサンスの時期、それまで陰陽五行説にとらわれすぎていた医学の分野で「昔に帰れ」(復古)の対象にされたのが張仲景の「傷寒雑病論」だったのです。

こうした日本(漢方)医学の歴史は以下のようにまとめることができます。
●以来、本場中国とはいささかことなり、「傷寒雑病論」を特に重視した、日本独特の漢方が発展した。
●陰陽五行論などにあまり染まっていない「傷寒論」を重視したことは、医学界に実証的な合理的理性をもちあわせた人材を多く育て、後に「蘭学」と出会ったとき、それを吸収できる素地をつくった。東洋で日本だけがいちはやく現代医学を消化吸収できたといってよい。
●一方、漢方医学の本来から見れば、日本漢方はいささかゆがんでおり、最近中国との交流を通して、また新たな漢方医学が誕生しようとしている。

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神農   しんのう   伝説の漢方医学の始祖  
扁鵲   へんじゃく   ハリ治療の始祖  
華佗   かだ   全身麻酔で外科手術を施す  
張仲景   ちょうちゅうけい   「傷寒雑病論」を著す  
王叔和   おうしゅくか   自らの脈論も併せて「脈経」を撰す  
皇甫謐   こうほひつ   針灸の必読書「甲乙経」を著す  
葛洪   かつこう   伝染病の研究大家  
陶弘景   とうこうけい   「神農本草経」の科学的整理  
巣元方   そうげんほう   「諸病源候論」を著す  
孫思襞   そんしばく   民間経験方を収集  
王翻   おうとう   「外台秘要」全40巻を編纂  
王閃   おうひょう   「黄帝内経」を整理  
丹波康頼   たんばのやすより   日本最古の医書「医心方」を編む  
王惟一   おういいつ   針灸術の発展に多大な貢献  
銭乙   せんいつ   小児科の開祖  
唐慎微   とうしんび   「経史証類備急本草」を著す  
成無已   せいむい   現存する最古の「傷寒論」全注本  
劉完素   りゅうかんそ   研究に没頭の「高尚先生」  
張元素   ちょうげんそ   易水学派の創始者  
張従正   ちょうじゅせい   攻邪に重きをおく  
李杲   りこう   「補中益気湯」を創方  
陳言   ちんげん   内・外・不内外、三因方を提唱  
陳自明   ちんじめい   「婦人良方大全」を完成  
厳用和   げんようわ   臨床経験を活かす  
王好古   おうこうこ   帰経と引経の新機軸  
朱丹渓   しゅたんけい   金元医学の集大成者  
戴思恭   たいしきょう   明の洪武帝の寵愛を受ける  
滑寿   かつじゅ   現在も使うツボ常用十四経  
王履   おうり   文芸にも優れる  
虞摶   ぐたん   最古の器具使用浣腸  
王綸   おうりん   医家の保守性を警告  
汪機   おうき   人参・黄包の運用に熟達  
薛己   せつき   「正体類要」を著す  
李時珍   りじちん   「本草綱目」に生涯を捧げる  
搜廷賢   きょうていけん   江戸時代のベストセラー  
方有執   ほうゆうしつ   病苦を克し大成  
繆希雍   びゅうきよう   英雄「神医安道全」  
王肯堂   おうこうどう   書物を著わすことに専念  
呉昆   ごこん   理論面の造詣に深く  
陳実功   ちんじつこう   中医の外科学を集大成  
張介賓   ちょうかいひん   30年を費やし「類経」32巻完成