17.成無已(せいむい)—現存する最古の「傷寒論」全注本

成無已
成無已(せいむい)  11~12世紀

「百に一の過失もない」診察

成無已は、宋・金時代の聊摂(今の山東省聊城西)の人。北宋の嘉祐の頃(1060年頃)生まれ、後に聊摂の地で金兵に捕らわれ、金人となる。
代々医者の家に生まれ、聡明で博覧強記。若いころから中原の名医となり、古典医学書を研究。特に張仲景の「傷寒論」に傾倒し、30歳を過ぎてから六経の学説を熱心に研究し、「内経」「難経」などの書を頼りに「傷寒論」に全面的な注釈を加え、およそ40年の歳月を費やして書き上げたのが、「注解傷寒論」と「傷寒明理論」です。

当時、宋と金は中原一帯でたびたび交戦していました。成無已は80歳を過ぎてから金人の一族の病気を診るよう脅され、臨少(当時金が占領していた北の都)に連れて行かれました。この時には著作はまだ原稿のままだったので、一緒に金へ持っていかざるを得ませんでした。

正隆元年(1156)、王鼎という人が弟を探して臨少に行き、時に九十歳すぎの老人であった成無已がなおも医療活動を続け、「百に一の過失もない」様子を目の当たりに見て、いたく尊敬し、彼の著作を刊行したいと申し出ました。しかし成無已は金朝の非難を恐れ、外に広める気にはなれませんでした。ほどなく成無已は金の地で不帰の人となってしまいます。

彼の死後、「傷寒明理論」は金の正隆3年(1158)頃に出版され、「注解傷寒論」は十七年後にある人の手で中原へ持ち帰られ、王鼎によって刊行されました。こうして成無已の著作はようやく世に伝わることになったのです。
「注解傷寒論」は王叔和が整理した「傷寒論」を原本とし、「内経」「難経」の諸説にもとづいて、各条に簡潔に注したもので、現存する最古の「傷寒論」全注本です。後世の医家にとって「傷寒論」を学ぶための必要不可欠の書物となりました。

※宋代は歴代中国の中でも印刷術を筆頭に、文化事業にもっともお金をかけた時代で、現代に伝わる古典はすべてこの時代に整理出版されたことは前回述べました。時代は漢民族の宋代から、北方民族支配の金・元時代へと移っていきます。

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