13.丹波康頼(たんばのやすより)—日本最古の医書 「医心方」を編む
丹波康頼(たんばのやすより) 912~?
丹波 哲郎氏のご先祖様
初めて日本の医家の登場です。
中国では先史時代から伝説上の神農にはじまって、名医伝や名医の著作が残っていますが、日本では平安時代以前には、医学書はあったのですが、残っていません。正倉院に保存されている薬物を見ても、奈良時代あるいはそれ以前から薬や医方がおそらくは仏教の伝来などにともなって流入してきたことは確かなようです。
遣隋使や遣唐使が制度化されてからは、これまでの「列伝」にとりあげたような医人の著作は、間違いなく全部輸入されています(※)。もっとも中国でも日本でも当時の医学書にあるような漢方医学の成果を享受できたのは貴族階級の上層部の一部だけで、一般庶民は無関係だったことはいうまでもありません。
奈良から平安(京都)へ遷都されたのが794年です。平安時代がスタートしてから百年目の894年に遣唐使の制度が中止されます。そのせいでしょうか、日本で医書がいくつか書かれます。「大同類衆方」などですが、現存するのは丹波康頼の「医心方」全30巻のみです。
この医学書は、これまでのシリーズで紹介した本のなかでは、隋末唐初の巣元方「諸病源候論」を土台にしており、引用文献は80冊の多きにわたっています。ここに引用されている書物には、中国ではすでに亡佚したものが多く、文献学的にもたいへん貴重なものです。
さて丹波康頼ですが、当時の知識人の多くがそうであったように、帰化人の末裔で、先祖は後漢の霊帝といわれています。当時の記録に残っていて現存しない医学書の著者は多気姓と丹波姓が多く、この二家系が連綿として日本の医家の代表として続きます。
その後の日本の医家の二大家系として丹波家と多気家が連綿とつづき、丹波康頼から下って約30代の江戸時代には、丹波家の分家筋にあたる多紀家が代々幕府官医のトップとなり、多くの著作を残し、日本の漢方医学の発展に寄与しました。丹波本家の現在の当主は、大霊界でおなじみの丹波 哲郎氏です。(1998年)
さて「医心方」全30巻は、当時、中国から伝わっていた医学書約80冊からの引用と、康頼が独自に日本風にアレンジした内容とからなっています。
第1巻の薬物論、服薬禁忌からはじまり、第2巻はハリ治療について、第3巻は中風(脳卒中やケイレン)の湯液治療。以下皮膚科、耳鼻科、口腔科、内科(腹痛、寄生虫、胸痛、嘔吐、下痢、糖尿病、大小便異常、伝染病など)、外科(できもの、外傷、火傷)、婦人科、産科、小児科、食中毒と、全30巻にわたる総合医学書です。
「ことし例のもがさにはあらず、いとあかきかさのこまかな出来て、老いたる若き、上下わかずこれを病み……(栄華物語)」(もがさは疱瘡のこと。赤い細かいかさとは麻疹のことか)などの、流行病にしばしばおそわれた時代に、この医学がどのくらい有効だったかは御想像ください。
「医心方」は数奇な運命をたどって明治時代まで伝わりましたが、第28巻の「房内」はワイセツという理由で発禁であったため、戦後その部分が出版された時、何やら医心方=房術と誤解を受けたこともありました。一部引用します。
「令女仰臥。男生女、一脚置於肩上、一脚自擧之。深内玉茎入於丹穴中。大興哉!!」
※宇多天皇寛平天年間、藤原佐世(ふじわらのすけよ)が撰述した「日本国見在書目録」には当時宮廷に存した中国医書1309巻が記録されており、これまで登場した中国の医学書はもちろん全部輸入されていたことがわかるし、本国中国ではその後亡佚し、この目録によってしか窺いしれない資料もある。