24.厳用和(げんようわ)—「済生方」を著す
厳用和(げんようわ) 1200?~1267?
どんな遠い場所へでも往診
厳用和、字は子礼。南宋の南康(今の江西省南康県)の人。しばしば廬山で医療活動を行なったので、廬山人と自称した。
「ずばぬけた知力で一を聞いて十を知り」、17歳で学業を修め、自分で看板を出して開業すると「年少ゆえに学問も浅かろうとは誰も思わず、次から次へと人々が訪れ」、求められればどんな遠い場所へでも往診に行き、「権貴な人々も礼を尽くして宴に招き、客人としてもてなした」といいます。
先人の貴重な体験を吸収するのがうまく、諸家の優れた点を取り入れ、また臨機応変で、学派にとらわれませんでした。「内経」「難経」「傷寒論」「金匱要略」「脈経」「巣氏病源」「千金方」「和剤局方」「三因方」などに大きな影響を受けました。世の中は古今で異なり、各地の風土はさまざま、古人の天賦の才にも差があるので「もし古方をおおむね修めて今の病気を治療することができたなら、予期せぬ効果が現われる」と考えました。そして古方については、時・場所・人によって用いるのが肝要で、そうしてはじめて有効的に実際に合った使い方ができる、と主張しました。
現代に至るまで使われている「済生方」
厳用和は先人の経験に、自分の臨床実践を通して検証を加え、三十数年の臨床努力を経て、南宋宝佑元年(1253)に「済生方」十巻を著わしました。さらに十五年後に前著を補うべく、「済生続方」八巻を著わしました。
当時は方書が流行し、方論が盛んでした。例えば「千金方」には5300あまりの方が載っていますし、「外台秘要」「太平聖恵方」と次第に増え、「聖済総録」では二万以上にもなりました。臨床医はその膨大さに感嘆するばかりで、どれにしたがえばよいのかわからない状態でした。
厳用和は数え切れない古今の方論を、自分の臨床経験に照らして大幅に削り、「済生方」では五百あまりにまとめ、たいへん実用的で把握しやすくしました。
「済生方」は中国よりもむしろ日本で重視され、鎌倉時代の梶原性善の「頓医抄」や室町時代の有隣の「福内方」にたくさん引用され、江戸時代から現代に至るまで使われている方剤もたくさんあります。
呉澄という医家は、「私には厳氏の「済生方」の薬が最もよいと思える。簡潔で、すぐに効用が現われる。おそらく厳先生は日常の臨床で方剤をよく試しているのだろう」と言っています。