10.孫思襞(そんしばく)—民間経験方を収集
孫思襞(そんしばく) 581?~682
没後「薬王」と讃えられる
孫思襞は、京兆花原(陝(せん)西(せい)省耀(よう)県)の出身で、隋の文帝の開皇元年(581)ころに生まれ、唐の高宗の永淳元年(682)に亡くなった。
子供のころから身体が弱かったが、7歳から勉強を始め、20歳のときには、諸子百家の説に通暁した。生涯名望を求めることがなく、隋の文帝の時に、国子博士(今日の国立大学教授に相当)として招聘されたが、病気と称して出仕しなかった。唐になって、太宗李世民が彼に爵位を授けようとしたが、固辞した。彼を人々は「孫真人」と呼んだ。
孫思襞は民間経験方や自分の医療経験を収集し、前人の残した多くの医薬文献を集め、分類整理して、全般的にまとめあげた。「上は文字の始まりから、下は隋の時代まで、経も方も広く採用した」といい、医学書を編集した。「人命の重さは千金の貴さがあり、医者の方剤がこれを救うのは、徳高きことである」として、「備急千金要方」と名づけた。
「千金要方」30巻は、医学道徳の規範、臨床知識、婦人・小児・内・外科それぞれの病証と解毒・救急・食治・養生・平脈・針灸・孔穴主治・導引などを述べている。232門に別れ、五千三百の方を収めた。唐代以前の医薬学の集大成というべきで、前に紹介した巣元方の「諸病源候論」につぐ総合医学百科全書である。ユニークなことに、一般内科よりも先に婦人科・小児科があり、彼が婦人や子供の保健衛生を特に重視したことを示している。
「千金要方」の不足を補うために、孫思襞は晩年になって「千金翼方」30巻を作った。主に張仲景の「傷寒論」の資料を補充している。彼は医学史上はじめて導尿術を採用した人であり、羊靨(ようよう)(羊の甲状腺)で風土的甲状腺腫を治療し、動物の肝臓で夜盲症を治し、牛乳・豆類・穀白皮で脚気を予防治療したりと、現代からみても「お見事」という治療をしている。
「千金要方」と「千金翼方」は後世の医学の発展に大きな影響を与え、外国にもかなりの影響を及ぼした。本書が成立してまもなく日本や朝鮮に伝わり、現在でも医学者に重用されている。
没後「薬王」と讃えられ、隠居していた五台山は「薬王山」と呼ばれるようになり、塑像や石碑をたてて彼の徳と不朽の業績を記念している。