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22.陳言(ちんげん)—内・外・不内外。 三因方を提唱

陳言
陳言(ちんげん)  1131~1189
三因方

薬物学の大著「本草綱目」

李時珍、字(あざな)は東璧、晩年は瀕湖山人と号した。明の正徳13年(1518)に溟(き)州(湖北省)で生まれ、万暦21年(1593)病で卒した。享年75歳。

祖父は鈴医(鈴を鳴らしながら街中を歩いて患者を診察する職工的な医者)で、父の李言聞は「医学八脈考」「四診発明」「痘疹証治」「人参伝」などを著わし、名医と知られた人です。李時珍の家庭は必ずしも裕福ではなく、栄養状態が悪くて体質の弱い、病気がちの青年でした。自身が病気のつらさを充分に知っていたので、父の跡を継ぐ決意を固めましたが、父親は医学の難しさを知りすぎていたので、許しませんでした。李時珍は父の希望にさからえずに、14歳で科挙の試験を受け、「秀才」となります。しかし、そのあとの試験に何度か失敗し、父親もしかたなく医学を継ぐことを許しました。

中国の薬物学は「神農本草経」以来、歴代の医家が増補をくりかえし、膨大なものに膨れ上がっていました。しかし薬物の種類は多く、名称は混乱し、誤った記載も少なくありません。そこで李時珍は35歳の時、本草を新たに編纂しなおす決心をし、八百種以上の書籍から資料を収集し分類して、薬物の形状・性味・効用などを分析し、自ら薬籠を背負って野山に調査・採集に出かけました。

こうして数年後に著作に着手し、27年間を費やして前後3回原稿を書き直し、ついに名高い薬物学の大著「本草綱目」が完成したのでした。時に李時珍は61歳の老人です。しかし「本草綱目」の価値はすぐに人々に認められたわけではありません。四方に手を尽くして出版社を探し、万暦21年(1593)に南京で印刷することが決まった時、この76歳の老人は体中を病にむしばまれ、この年の秋、ついに他界してしまったのです。

「本草綱目」52巻には、1892種の薬、附方11916、挿絵1000点以上、190万字が記されています。薬物は16部60類に分類して説明を加え、豊富で分かりやすい内容で、古今の文献の誤りも正しています。万暦24年(1596)に「本草綱目」が正式に出版されてからは、全国で貴重な文献として大評判になり、日本・朝鮮にも伝わり、フランス・ドイツ・ロシア・ラテンなどの言語に翻訳されて、世界の鉱物学・化学・動物学・植物学の発展を促しました。

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