31.王綸(おうりん)—医家の保守を警告
王綸(おうりん) 15世紀中~16世紀初
古方にもとらず、かつ拘泥せず
王綸、字は汝斎、明代に慈渓(今の浙江省寧波市慈城鎮)に生まれ、15世紀中頃から16世紀初頭にかけて活躍しました。享年77歳。
王綸は幼いころから学業に励み、明の成化20年(1485)に科挙の進士に合格して官途につき、礼部郎中・広東参政・湖広広西布政使を歴任したあと、正徳年間(1506~1521)に右副都御史・巡撫湖広に遷されました。
父親が病気だったので、兄の王経とともに医学を修め、医理を研究して名を成しました。その医術は丹渓を宗としつつ、諸家の説の優れた点を取上げたもので、古方にもとらず、かつ古方に拘泥せず、精密な論が多く見られます。
役人勤めの合間に病人を治療し、優れた成果を上げ、晩年は「明医雑著」「本草集要」などを著わしました。
「内経」は中国医学の基礎理論であり、張仲景・李東垣・劉河間・朱丹渓の四人はみな「内経」の基礎の上に理論を発展させました。疾病治療の臨床でも、外感は仲景、内傷は東垣、熱病は河間を用い、雑病は丹渓を用いればよい------というのが、王綸の主張です。
宋代以降「局方」が盛んになると、医家はそれを守るばかりで自ら方を作ることに臆病になってしまいました。また東垣・丹渓の書が流行すると、今度はこぞってそればかり用い、古方を忘れ、二人にならって自制の方を作りました。------だが古方は名医の作。
また李東垣・朱丹渓は当時の情況に合わせて本草の薬性を明らかにし、「内経」の法則を洞察したが故に、自ら方を作り、優れた成果を上げることができた。しかし今の医家はそうではなく、薬性も知らず、方の組み立て方も分からないのに、無闇に自制の方を作っている------王綸はこのように警告しています。
当時中国に留学した日本の僧侶・月湖は「類証弁異全九集」を著わし、王綸の論をたくさん引用しました。日本漢方の祖といわれる曲直瀬道三(まなせどうさん)(1507~1594)の著書「啓廸集(けいてきしゅう)」にも、「明医雑著」からの引用がたくさん見られます。