20.張従正(ちょうじゅうせい)—攻邪に重きをおく
張従正(ちょうじゅうせい) 1156?~1228
金元四大家のNo.2
張従正、字(あざな)は子和(しか)、号は戴人。雎州考(しょしゅうこう)城(じょう)(今の河南省蘭考県)の人。劉完素のあとを継ぎ、汗吐下(かんとげ)の三法を主張した「攻邪派」の代表。金の海陵王正隆元年(1156)生まれ、哀宗正大五年(1228)卒。享年72歳。劉完素に次ぐ金元四大家のNo.2。
張従正は豪放磊落で親しみやすい人柄だったそうです。代々医にたずさわる家に生まれ、「内経」「難経」「傷寒論」などの医学書に精通しました。青年時代は軍医となり、都の太医院に招かれたこともありましたが、疫病の流行する乱世に身を置き、上官の送迎や馬前での敬礼といった醜態にたえられず、ほどなく職を辞して郷里に帰り、開業して人々の治療にあたりました。
勉学・診療のかたわら詩歌をよくし酒を愛し、金朝の統治に対する不満から「一張の琴、一壺の酒、一渓の雪、五株の柳」「紙の窓、土のオンドル、酔いて復た酔い日に夕にまま醒めれば五斗を呑む」生活を送る趣味人であったといいます。「竹林の七賢」に代表される、中国人が好む知識人のタイプのひとつの典型です。
張従正は劉完素に私淑し、寒涼の薬(攻邪の薬)を多く用いました。病気の原因を風暑湿火燥寒の六つに大きく分類し、これらの邪気を一切の疾病の根本的原因とし、まず邪を除いて正安を得るのが診療方針で、「そもそも病というものは人の身体にもとからあるものではなく、邪気が外から入ってきたり内から生じたりするだ」と主張しました。
漢方医学の基本は、正気(身体の丈夫さ、抵抗力)が衰えると邪気(病因、代表的には伝染病の細菌)が身体に侵入して病気をおこすと考えます。だから治療は正気を扶(たす)ける(補う)のと、邪気をたたく(瀉す)の二本立てとなります。どちらに重点をおくかで漢方家それぞれの個性が出るのです。
金元四大家No.1とNo.2の劉完素と張従正はともに邪気をたたく(攻邪)に重きをおいたのでした。
この考え方は、江戸時代元禄のころより日本の漢方の主流となった「古方派」と一脈相通ずるものです。