15.銭乙(せんいつ)—小児科の開祖
銭乙(せんいつ) 1032?~1113?
八味丸から、小児用の六味丸を創方
銭乙、字(あざな)は仲陽。山東省委(うん)州(しゅう)の人。宋の明道元年(1032)生まれ。政和3年(1113)卒。享年81歳。著名な小児科の学者です。
父の銭潁(せんえい)も医術に長けていましたが、酒好き遊び好きで、ある日、東湖に船を浮かべたまま帰りませんでした。当時、銭乙は三歳になったばかり。母親を早くに亡くしていたので、祖母に引き取られました。祖父も姓を呂といい、やはり医者でした。銭乙は祖父から医術を学んだのです。のちに祖母から父のことを聞き、数年間、乞食のような真似をしながら父を捜しまわり、ついに見つけて連れ帰りました。時に銭乙、30歳。
銭乙は父と祖父について熱心に医学を修め、「内経」「傷寒論」「神農本草経」などの書物を研究しましたが、幼児期の悲惨な境遇のためか、小児科の専門書「顱沽経(ろしんけい)」を特に好み、小児科の医者になる決心を固めました。
子供の診断・治療は難しく、古来、小児科は「唖科」と呼ばれ、多くの医者に敬遠されていましたが、銭乙はその難しさを知ったうえで、広く知識を修め、多くの師について学び、豊富な経験を積みました。
宋の神宗の元豊年間、銭乙は都へ行って開業しました。名声が都中に広まり、皇族や貴族も争って銭乙に子供の病気を診てもらったといいます。
のち銭乙は健康を害し、官職を辞して故郷に帰ると、不自由な体で飽くことなく歴史書や医学書を読み、近隣や遠方から訪ねてくる人々のために診察し、処方を授けました。
銭乙の四十年にわたる小児科医療の経験を、死後「小児薬証直訣」にまとめたのは弟子の閻季忠で、宣和元年(1119)に刊行しています。全三巻。上巻は脈証治法を論じ、計81篇。中巻は症例を挙げ、23則の小児科の病例を記録。下巻は方薬で、小児に常用される方剤120を詳述しています。銭乙独自の見解がいたるところに見出され、中国に現存する最初の実用的価値のある小児科専門書です。
有名な八味丸から、小児用の六味丸を創方したことは、小児科ばかりでなく、のちの漢方医学の理論と臨床に大きな影響を与えています。