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37.繆希雍(びゅうきよう)—英雄「神医安道全」

繆希雍
繆希雍(びゅうきよう)  1546?~1627

脈と症で方を試す

繆希雍、字(あざな)は仲淳。明の常熟(今の江蘇省常熟)の人。後に金壇に居を移しました。嘉靖25年(1546)ころに生まれ、天啓7年(1627)ころに亡くなりました。

繆希雍は知識人の家庭に生まれましたが、仕官を望まず、世事の煩わしさから距離を置きました。その人となりは豪壮で、義侠心に富み、剣客のようでした。人間として生きていく以上、一人きりではいられないのだから、他人のために有益なことをすべきだと考えていました。
そこで「医方を収集し、薬道を探究する」ことにしたのです。王侯に仕えず、道士、僧侶、樵の老人や村の子供たちと親しく往き来して、彼らから多くの秘方を収集するとともに、医薬の理論でそれらを研究しました。王紹徽という人が「点将録」で、当時の人々を「水滸伝」の108人の英雄にたとえていますが、繆希雍は「神医安道全」と呼ばれています。

繆希雍は医術に精通し、医方の経書はすべて研究しましたが、特に本草学に通じていました。上古の医学書のうち、秦の焚書に遭わなかったのは「内経」と「本草」だけだと考えていました。「神農本草経」は儒家の「六経」(孔子が編纂したという六つの経典=易・書・礼・詩・春秋・楽)に相当し、「名医別録」は「六経」の注疏(注釈)に相当します。そこで「本草」を経(タテイト)とし「別録」を緯(ヨコイト)として、「本草経疏」「本草単方」等の書を編纂し、経文の奥義を深く学んで、薬物の性能に精通しました。繆希雍の処方は柔軟性に富み、独創性にあふれていました。

当時の医者たちは繆希雍の処方用薬をほとんど理解できず、たくさんの人が彼を誹謗しました。しかし、非常に重い病気の人に対して自分では治療の施しようのない時には、しばしば繆希雍のところへ行って教えを請うのでした。繆希雍はいつも快く出かけて行って、丁寧に診察し、症に応じて薬を用いると、かならず効きました。彼はいつも「私は脈と症で方を試すのであって、方で病を試すことはしない」と言っていました。

後に「本草経疏」は、李時珍の「本草綱目」と並び称されるほどでしたが、現在では後者ほどには流布されていません。

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