29.王履(おうり)—文芸にも優れる
王履(おうり) 1332?~1391?
朱丹渓の高弟
王履、字(あざな)は安道、号は奇翁・畸叟・抱独老人。元末の昆山(今の江蘇省)の人。元の至順3年(1332)ころに生まれ、明の洪武24年(1391)ころに卒した。
王履は才能溢れ、勉学を好み、群籍を博覧して、詩文も上手く、絵画にも優れていました。洪武16年(1383)秋七月、50歳を過ぎてから華山の頂上に登り、42幅の絵を描き、4篇の文章を書き、詩150首を作っています。
王履の医学は朱丹渓に学んだもので、高弟の一人でした。洪武4年(1371)に秦王府の良医正となり、「標題原病式」「百病鈎玄」「医韻統」など百巻におよぶ医薬関係書を書きましたが、残念ながら散佚しました。現在見られるのは「医経溯陥集(いけいさくかいしゅう)」だけです。
「医経溯陥集」は洪武9年(1368)にできた王履の医学論文集で、書名のとおり「内経」や「神農本草経」「難経」「傷寒論」などの医経の原点にさかのぼって研究するという書です。「神農嘗草論」「亢則害承乃制論」「張仲景傷寒立法考」など計21篇からなっています。
「亢則害承乃制論」では、「素問」「六微旨大論」の「亢すれば則ち害し、承すれば乃ち制す」という二句を、「制の常と無制の変を言ったもの」と解釈し、「亢害承制」の生化現象は「造化の常であり、無亢であることもできないし、無制であることもできない」と指摘しています。こうした弁証法的な奥の深い観点は、後世、賞賛されています。
「張仲景傷寒立法考」では、「韓紙和、桂枝湯の用ひ難きことを覚えて、ただ今昔の世、同じからずと謂ふと雖も」というように、傷寒論の時代の伝染病と当時の伝染病は異なるのだから、傷寒論の桂枝湯はもはや使えない、といった当時の風潮(これは「傷寒学派」に対して後の成立する「温病学派」のことで、両派の論争は長く続きました。現在の日本漢方古方派と中医学派の論争もその延長です)を批判し、「それ仲景傷寒論の立法は、天下後世の権衡なり」と断じました。
当然この書は、江戸時代初期、「傷寒論に還れ」を叫んだ日本漢方古方派に大歓迎され、「古方派」の祖といわれる名古屋玄医は、この書をもとに、「医経溯陥集抄」を著しました。