35.搜廷賢(きょうていけん)—江戸時代のベストセラー

搜廷賢
搜廷賢(きょうていけん)  16~17世紀

弟子の戴曼公は、日本に帰化し「万病回春」の普及に尽力

搜廷賢は、金谿の人。字(あざな)は子才。雲林と号す。
父も著名な医者の搜信で、号は西園、「古今医鑒」八巻の著作があります。また廷賢の子、定国も名医でした。

明代の末、神宗の治世の万暦年間、明の文化の最も栄えた時代に、三代にわたって続いた医家の名門でした。「雲林志行紀」という伝記によれば、「廷賢は生まれながらにして岐嶷(きぎょく)(幼いころから才知が人よりすぐれていること)、仁孝。若い時から経書に親しみ、文章に抜群の才があった。科挙に落第して父の稼業を継ぐ決心をし、都の京北で中玄高公などの知遇を得て、名声を博した。以後各地の王侯から招聘され、各所で「起死回生」の実をなした。報酬は求めず、高貴の人からやむなく受け取った時も、親族や郷里の人にふるまった」といいます。

この文章のなかに、「達すれば則ち良相、達せざれば則ち良医、ひとしく世道を補う」ということばがあります。この列伝に登場する多くの医者が、若き日に科挙に落第して役人(良相)になるのをあきらめ、医(良医)になっていますが、「ひとしく世道を補う」とありますから、政治と医術が同じレベルのこととされており、なお「斉世(政治家)救民(医者)」といった順番があるのは面白いですね。国医や儒医ということばもあります。

さて廷賢の著作は豊富で、まず父の「古今医鑒」八巻を補って刊行したものがあります。最も有名なのは「万病回春」で、「凡そ疾はこれを療すれば沈病(重病)たちどころに起つこと、草本の春に逢うが如し」が、書名の由来です。「回春剤」というあの回春です。
本書は内科・小児科・婦人科・外科など全科にわたる総合医学書で、医の倫理のいったことまで書かれています。約1000の処方が記されていますが、従来の中国の医学書と違って記述がクドくなく、日本で大歓迎されました。日本の江戸時代初期に18回にもわたって版を重ねたベストセラーです。現在よく使われる漢方薬にも、この書によるものがたくさんあります。

廷賢の弟子にあたる戴曼公は、1653年長崎に渡来して日本に帰化し、「万病回春」の普及に尽力し、痘診治療(天然痘の漢方的治療法)を日本に伝えたといいます。

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