26.朱丹渓(しゅたんけい)—金元医学の集大成者

朱丹渓
朱丹渓(しゅたんけい)  1281~1358

丹渓学社の「医聖」

朱丹渓、名は震亨、字(あざな)は彦修、後州(ぶしゅう)義烏(ぎう)(今の浙江省義烏県)の人であるが、代々丹渓赤岸鎮に住んだので、後世丹渓翁と呼んで敬われている。
「滋陰派」の創始者である。元の世祖の至元18年(1281年)に生まれ、元の至正18年(1358年)卒、77歳であった。

彼は農家の出身で、父を医療ミスで亡くしたあと、母ひとり子ひとりよりそって生きていた。幼いころから学問を好み、率直な性格であった。青年に成長すると、土地の先生について経史を学び、科挙(官吏登用試験)を受験した。30歳のときに、母が胃を患ったのをきっかけに、医学書に目を通すこととなった。

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初めて「素問」を読んで「簡素な言葉のなかに深い道理がある」と感じた彼は、5年間の勉強で母の病気を治した。36歳のときに、儒学者朱子の弟子である許文懿に教えを請い、「道徳性命」説を研究したが、あるとき、許文懿が重病にかかり終日起き上がれなくなった。許は朱に医学を学ぶよう勧め、宿痾を救ってくれるよう頼んだ。丹渓は、自分の身内がヤブ医者のために命を縮めることとなったのを思い出し、科挙受験を投げ捨て、医学に専心する決意をした。

先生を求めて各地を巡り歩き、武林(今の杭州)でやっと羅知悌に出会うことができた。羅先生は太無先生とよばれ、金代の劉完素の弟子で、「内経」「難経」に通じ、張従正・李東垣の説にも詳しかった。丹渓は入門を願い出たが、容易には許されず、風雨をおかし、門前払いも厭わず、ようやく3ケ月後、羅知悌はこの44歳の朱を唯一の弟子とした。
劉・張・李三家の学説、「内経」「難経」の理論を羅知悌に学び、ついに「滋陰降火」という原則をうちたてた。朱丹渓は三家と併せて、金元四大家といわれ、また金元医学の集大成者ともいわれる。許文懿の四肢疾患を治療したあとは、尊敬をあつめ、その名は江南に広まった。

その著作は、金元四大家のなかで最も多く、二十数種を数え、その代表が「格致余論」「局方発揮」「丹渓心法」などがある。後世に大きな影響を与えたのはもちろん、日本では「丹渓学社」がつくられ、もっぱら彼の学説を研究し、彼を「医聖」と呼んでいる。

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