28.滑寿(かつじゅ)—現在も使うツボ常用十四経

滑寿
滑寿(かつじゅ)  1304~1386

針灸の重要性をひろめる

滑寿、字(あざな)は伯仁。自ら速(えい)寧生(ねいせい)と号した。元の成帝大徳八年(1304)に儀真(今の江蘇省)で生まれ、晩年は余姚(今の浙江省)に移り住み、明の洪武十九年(1286)、享年82歳で世を去りました。

幼いころから聡明で、詩文も達者でしたが、科挙の試験には受からず、儒を棄て医を志しました。当時、都で名医と名高い王居中が儀真に滞在していたので、師と仰いで「素問」「難経」などを学び、それから東平の高洞陽に針を学び、開合流注と方円補瀉の道をことごとく得て、薬物治療だけでなく針灸学にも精通し、江南に名を広めました。

「内経」と「難経」を重視しましたが、初学者がこの古典医学書を読みこなすのは難しく、学問の流れや要点をつかんで諸家の説を理解することが先決だと考え、「読素問鈔」「難経本義」を著わして、後学を指導しました。

「読素問鈔」三巻は、「素問」の精華を選んで編纂し直し、臓象・脈候・病能・摂生・論治・色脈・針刺・陰陽・標本・運気・匯萃の十二部に分けたもので、この素問研究のやり方は、後世の張介賓による素問の研究書「類経」の先駆をなすものでした。
「難経」はこのシリーズ第2回に登場した秦越人扁鵲によるといわれるハリ治療の古典ですが、滑寿は元代以前の各種注本を参考に、彼独自の見解も入れ、「難経」の缺文・錯簡を整理しました。

こうして著わした「難経本義」二巻は、テキストとして後世最も信頼されたものです。日本でも江戸時代初期、森本玄閑によりこの「本義」をもとに、さらに「本義大鈔」が著わされ、現在当院で行なわれているような経絡治療につながっています。

当時、方薬が流行していて、針灸は軽視され、経絡兪穴も知らない医者が増えていましたが、滑寿は「古人の治療は針灸が主で、薬物湯液を採用する場合は少なかった」と考えていました。そこで経絡兪穴に関する資料を集め、常用十二経に加えて、奇経のなかの任脈・督脈を昇格させ、あわせて常用十四経とし、「十四経発揮」三巻を著わし、至正元年(1341)に刊行しました。私たちも通常この十四経に属している経穴(ツボ)を使っているのです。

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