21.李杲(りこう)—「補中益気湯」を創方
李杲(りこう) 1180~1251
内傷学説を提唱
李杲は豪族の家に生まれ、幼い時から博覧強記で、弱冠にして儒生として名を知られましたが、ちょうどその頃、母の王氏が病に倒れました。そこで発奮して易州の張元素について医学を学び、数年を経ずしてことごとくその法を修めたといいます。
李杲が生きたのは、金と元がたびたび干戈を交える戦乱の時代でした。元兵の殺戮を逃れて開封へ行き、医術で公卿や貴族の間をわたり歩いていましたが、ほどなく開封も攻められ、城門は閉ざされ住民は飢餓に苦しみ、疫病の流行で、城内では百万にのぼる人々が次々に死んでいきました。
李杲はその様子を目のあたりにして、内傷が疾病発生の主たる要因であるという内傷学説を提唱しました。当時一般の医家は、張仲景の方(傷寒論)か河間・子和の法(攻邪派)を遵守するのみで、新しい工夫がありませんでしたが、李杲は各地の疫病流行の状況を観察し、多くの疾病が必ずしも外感風寒によっておこるのではなく、不安定な社会環境や人民の疲弊・飢餓・ストレスにより、寒温がバランスを失うのが原因であると考えました。
彼の著書である「内外傷弁惑論」には、「内傷熱病」と「外感熱病」の脈象・寒熱・頭痛など各方面での違いが詳細に述べられています。外感熱病には攻邪の方法を用いるのがよろしいが、内傷熱病には「正を扶(たす)け以て邪を去る」べきである、というのが彼の治療原則です。
また脾と胃が人体で重要な働きをし、「脾胃を内傷すれば百病がそのために生ずる」とし、元気は生命活動の源泉・健康の根本であり、「脾と胃こそ元気の盛衰を決定するカギである」と主張しました。
そこで後世「補脾派」と呼ばれています。現在でもさかんに用いられる「補中益気湯」という漢方薬は彼の創方です。中は脾胃のことで、彼の考え方をそのまま方剤の名前にしたものです。多くの種類の生薬を少量ずつ用いて組み合わせるのも、彼の方剤の特徴でした。