39.呉昆(ごこん)—理論面の造詣に深く
呉昆(ごこん) 1551~1620
科挙に失敗し医者に
呉昆、字(あざな)は山甫、号は鶴皋(かくこう)。歙県(安徽省歙県)の人。嘉靖30年(1551)生まれ、泰昌元年(1620)卒。享年69歳。
呉昆は少年のころから俊英で、華麗な文章と縦横な思索は同年令の者たちのとうてい及ばないものでした。しかしチャンスに恵まれず科挙には失敗し、地元の長老に「昔の人は志望がかなえられなければ医者になって世を救ったものだ。君も儒にこだわらず、医者になったらどうか」と諭され、医学に転向して方書を読みふけり、数年で「内経」「難経」「甲乙」などを読破しました。その後、当地の名医余午亭に師事し、余午亭の勧めで天下の名医を尋ねて学び、明の医学の大家のひとりとなりました。
呉昆は理論面の造詣に深く、「素問」「霊枢」は医学の「墳」「典」(古代の書籍)であり、「難経」「甲乙」は儒家の「中庸」「孟子」に当たるもの、張仲景・王叔和・劉完素・李東垣は宋の五子の書に相当すると言いました。特に「素問」の研究に努力し、万暦22年(1594)に「素問呉注」を著わしました。「素問」79篇(原欠「刺法論」「本病論」)の原文を篇ごとに解析したもので、篇首に篇名の意味とおおよその内容を簡潔に紹介しています。
注は簡明で、生理・病理・脈法に対する理解は深く、原文の間違いも正し、独特な「素問」注釈書となりました。汪(おう)昴(ぼう)は「「素問呉注」には従来の注で言及されなかった点を明らかにした所が、ままある」と評しています。
呉昆は臨床治療の面でも豊富な経験を持ち、病を治するには闇雲に古方を踏襲するのではなく、臨機応変に使う必要があると主張しました。古方を守りながらも拘泥せず、諸家の優れた点を取り入れました。病気の診断はしばしば他の医者と異なりましたが、多くの場合は呉昆が正しく、人々は「きっと呉昆は扁鵲に医の秘術を伝授したという長桑から秘法を得たにちがいない」と賛嘆しました。
ほかに「医方考」「脈語」「参黄論」「針方六集」「薬纂」などの著作があります。「医方考」は歴代の常用の方剤700余種を疾病に応じて44類に分けて解説したもので、方剤の作り方や治病の理論に詳しく、明の優れた方剤書の一つです。